はじめに

ぼくは最近、人との価値観の違いや会話のズレを
機械学習のモデルとして考えるようになった。

すると、これまで感覚的にしか説明できなかったことが、
驚くほど整理されて見えてきた。

人は、同じ世界を生きているようで、
実はそれぞれ違うモデルで世界を解釈している

今日は、その話を書いておこうと思う。


同じ言葉でも、返ってくる意味は違う

たとえば、誰かに「犬」という言葉を投げたとき。

ある人は言う。
「かわいいよね」

別の人は言う。
「うるさくて苦手」

また別の人は、
「仕事で関わっているから管理が大変」と言うかもしれない。

入力は同じ「犬」。
でも出力はまったく違う。

これは、

  • 経験してきたこと
  • 強化されてきた価値観
  • 安全か危険かの判断基準

そうした学習データの違いによって、
それぞれ違うモデルが動いていると考えると、とても腑に落ちる。


「いいこと」「悪いこと」は刺激に内在していない

ここからが本題。

ぼくたちは、何か出来事が起きると、
無意識にそれを「いいこと」「悪いこと」に分類する。

でも、この分類は本当に客観的だろうか。

答えは、たぶん違う。


ホームランボールのたとえ

野球場で、ホームランボールが自分のところに飛んできたとする。

この出来事は、こう分かれる。

  • 選手のボールが手に入ってラッキー
  • 硬いボールが飛んできて危ない、アンラッキー

起きている現象は同じ。
違うのは意味づけだけ。

つまり、

「ラッキー/アンラッキー」は
出来事ではなく、モデルが決めている

と言える。


過学習すると、世界は一色になる

ここで「過学習」という考え方が役に立つ。

もし、人が特定の価値観や教えだけで世界を解釈するようになると、
どんな刺激も同じ結論に吸い込まれていく。

  • うまくいった → 教えのおかげ
  • 失敗した → 教えが足りない
  • 疑問が出た → 疑う自分が悪い

これは機械学習でいうと、
出力が固定化された過学習モデルに近い。

内部的にはとても一貫している。
だから本人にとっては「迷いがなく、わかりやすい世界」になる。

ただし、環境が変わったときに弱い。


本当に強いモデルとは何か

最初、ぼくはこう考えた。

できるだけ刺激を「よい」と判定できる学習経験が大事なのではないか

でも、少し考え直した。

本当に強いのは、

  • 危険は危険として避けられる
  • 失敗はあとから意味として回収できる
  • 別の解釈を試す余地がある

意味づけの可動域が広いモデルだ。

行動は現実的で、
解釈は柔軟。

この二つが分離できていると、人は折れにくい。


人と分かり合えないときに起きていること

人との議論が噛み合わないとき、
それは「どちらが正しいか」の問題ではないことが多い。

  • 入力(出来事)は共有している
  • でも評価軸(モデル)が共有されていない

それなのに、
「それは良いだろう」
「いや、悪いだろう」
と、結論だけをぶつけ合ってしまう。

これは、
違うモデルで推論した結果を、そのまま比較している状態だ。


おわりに

この考え方を持てるようになってから、
ぼくは少しだけ楽になった。

  • 相手をすぐに否定しなくてよくなった
  • 自分の感じ方も絶対視しなくてよくなった
  • 学び直す余白を残せるようになった

人はみんな、違うモデルで世界を分類している。

だからこそ、
モデルを更新できる余地を残しておくことが、
生きやすさにつながるのだと思う。